<前へ>
初夏に差し掛かったころ、麗史はぼうっとどこか遠くを見るような、心ここにあらずという様子がみられるようになり、優理が話し掛けても聞き返すことが多かった。そんな麗史の様子を不思議に思った優理は思い切って訊いてみることにした。
「最近れいみお姉ちゃん、元気ないみたい。体が悪いの?」
優理の問いかけにはっとした麗史は視線を迷わせ、表情を曇らせる。
「体は、悪くないわ、元気よ。ありがとう」
かろうじて笑みを浮かべたが、真っ直ぐな優理や薫の視線に誤魔化せないと感じた麗史は長く息を吐くと意を決したように口を開いた。
「あのね、ええと……今度、ウィーンヘ留学することになったの」
「ウィーン……?」
ぽかんと口を開けて薫が繰り返すと、麗史は微笑みながら近くにあった音楽の教材を開く。そこにはヨーロッパの街並み、大きなホール、オーケストラの写真が載っていた。
「ヨーロッパにあるオーストリアという国の街でね、音楽の都と呼ばれているの。ここでは音楽のことを沢山教えてくれるのよ」
優しく教えてくれた麗史の目は不安げに優理と薫を交互に見つめた。薫は麗史が遠くへ行くことを悟り、涙目になった。優理は思ったよりもショックな告白に動悸が激しくなる。そんな二人の様子を見て、麗史は胸が痛んだ。
「ごめんなさい、なかなか言い出せなくて……私も二人と離れたくなくて……」
しかし二人はずっと前から決めていた。虐待のことは口に出さないでおこうと。知ったら心優しい麗史が心を痛めると分かっていたからだ。優理はぐっと口角を上げ笑顔を作ると明るい声を出した。
「ステキ!れいみお姉ちゃんはピアノとっても上手だから、もっとうまくなってね!」
「……優理ちゃん、本当にここに来れなくなっても大丈夫なの?」
「だいじょうぶ!私、れいみお姉ちゃんの夢を応援するよ」
その時のほっとしたような、でも悲しげで心配そうな表情を優理は鮮明に覚えている。
「私ね、演奏をふたりに聴いてもらって、とても励まされたの。だからもっと三人で色んなことをしてみたかったわ」
今にも泣きそうな麗史を見て、優理は不自然なくらい明るく務めた。
「ねえ!来週、星ヶ丘神社で夏祭りがあるよね?一緒に行こうよ!ね、薫!」
薫は優理の言葉に黙ったまま深く頷いた。
「是非行きましょう。それだったら私、ビデオカメラを持っていくわね。三人で沢山思い出を残してまたいつか帰国したら一緒に見ましょうね」
麗史は目頭を押さえながらふたりに言ったが、優理は小さな声でそうだね、と作り笑いをした。頭の中ではいつかっていつだろう、とぼんやり考えていた。
夏祭りの当日、優理はひっそりと浴衣の入った紙袋を家から待ちだすと、薫と共に建物の陰に隠れる。
「ここならだいじょうぶだね」
期待に胸を膨らませた薫の前で優理は紙袋から浴衣を取り出した。あえて薄着にしてきた服の上から、薫に浴衣を着せてやる。薫は目を輝かせながら浴衣の自分をきょろきょろしながら見ている。これは麗史が当日着てきてね、と事前に渡してくれたものだ。家で着てしまっては母親に見つかり何を言われるか分からない。優理も自分の浴衣に袖を通し、初めての浴衣に胸を震わせた。ふたりはまるで家から着てきたかのような顔をして麗史との待ち合わせ場所に向かった。
麗史は桜坂の手前で佇んでいた。その姿は美しく、いつもの洋服でも上品だが浴衣と品のある髪飾りはさらに彼女に華やかさを与えていた。
「優理ちゃん、薫くん」
控えめに手を振って合図した麗史に、優理は思い切り手を振って応えた。薫は麗史まで一目散に駆けていく。
星ヶ丘神社は桜坂を上がった先にある。
いつも通り、変わりなく神社は神聖な雰囲気を放ってそこにあったが、今日は夏祭りのため人が多い。夜になりかけた空は薄暗い。
「わあ、綺麗ね……」
入口の大鳥居を潜り抜けた先にある、名物である風鈴回廊に早速近づくと麗史は口に手をあて、立ち止まる。木で作られた格子状の回廊に風鈴が側面、天井にびっしりと飾り付けられ、風に短冊がはためいている。
「何度見ても、風鈴の位置や種類が毎回違っているから、初めて見たような気持ちになるわね」
「私はあの青いのが好き」
「素敵な柄ね」
「れいみお姉ちゃんみたい。透き通ってて、曇りが無いの」
優理が大人びた表情で話すのを麗史は見つめる。薫はひらひらと舞う短冊に目を奪われていた。麗史は手提げ鞄からビデオを取り出すと上を向きながら笑顔になっている薫や、静かに風鈴の造形を眺め、時折笑う優理の姿を収めていった。
「ねえ、写真を三人で撮りましょう。……すみません、写真お願いできますか?」
通りかかった見物客にカメラを渡すと、麗史は二人をぐっと抱き寄せ、カメラに優しく微笑んだ。思ったより強い力に、優理は麗史の寂しさをひしひしと感じる。優理は自分に出来るとびっきりの笑顔をカメラに向けた。
神社を少し抜けた広場に三人は向かい、見晴らしの良い場所に出る。すっかり空は暗くなり、桜坂から見下ろすとそこには夜景が広がっていた。麗史は二人を呼び寄せると手を出すように伝えた。
「これを、三人で一緒に持ちましょう」
手のひらにコロコロとした小さなお手玉のような可愛らしいお守りが乗せられる。優理はその可愛らしさに声が出た。
「これはなあに?」
「縁結びの風鈴守りよ。……離れていても、ずっと私達は繋がっているわ。寂しくなったらこのお守りを見て私のことを思い出してね」
「れいみお姉ちゃん……」
その言葉に優理は思わず涙が零れそうになった。
「私は優理ちゃんも薫くんも、私のとても大切なお友達。また必ず、会いましょうね」
その優しくも力強い語り掛けに、薫は無邪気に笑った。
「うん、ぼく、れいみおねえちゃんのこと、ずっと待ってるから」
「ありがとう、薫くん」
麗史は優しく薫の頭を撫で、優理の手に触れた。この時間が永遠に続けばいいのに、と優理は唇を噛みしめる。応援したい想いと、行かないでほしい想いが混じり合った帰り道を優理は複雑な気持ちで歩いて行った。
それから数日後、出発前に麗史は夏祭りの写真を優理に渡し、日本を去っていった。優理と薫は毎日お守りを眺め、三人で再会し沢山話をしながらまたあの美しいピアノの音色を聴くことができると、そう、信じていた―――。
